アクティビスト、フェミニスト、クィアとして活動するとある外国大学関係者の生活の中からの視点。(C)flowfree 初めて寄られる方は、カテゴリ:管理人、の”こんにちは”を読んで下さい


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性の捉え方と文化:正常を狂気に変え得る精神分析

増村保造の「音楽」という三島由紀夫の本を元に作られた映画のレビューをakaboshiさんのブログで読んで重い腰を上げてそうろそろあれに関わる記事を書いてみようか、と思い始めた。あれというのはカゾク間の恋愛の話。それが良い、悪い、ということを話すのが目的ではなく、その行為にまつわる多数の文化的な繋がりを配慮し、カゾク間の愛、というのはどういったことなんだろう、どんな事が関わっているんだろう、と考えてきたことを少しづつでも頭を整理して記録して行きたい、と思った。誤解を与えたくないため説明や例を書き長くなるが自分にはコレを記録することは大事なことであって、読んでくれる方がいたらさらに考えてくれたら嬉しいし、読んでもらえなくても自分の頭が整理できて考えをもっと洗練できたらいいなと思っている。コレに関する観念は色んな視点から話す事ができるが今回はその一部、文化的影響とその違いについて考えたい。

一つの事に対しても文化が違えばものの価値は様々。
牛にしてもある所では神様と見られ(神と行っても拝むような存在とは違って雑に扱ったりすることもあり)、ある所では財産の象徴だったりする。

でも例えばそんな文化にもある社会政治的変化が起き、神、と例えられたリーダーが亡くなり、反リーダーだった新しい権力者が、存在していた
”牛は神”という価値を壊すことにした、としよう。牛は亡くなったリーダーの神的存在を思い起こさせる手助けをする、と思われた。牛はそして動物であり、牛を神とみることは野獣を人間と見ているようなもの。二つを合わせると悪魔の姿のようではないか。それこそ神を野獣と一緒にするのは何事か。そんな論理が続けられ、都会では牛を神と祭るのは禁じられ、危険と見られるようになり、牛を祭る人間を見ると悪魔崇拝と見られたり、頭がおかしい、と思われたり、犯罪者と扱われるようになった。

上の話はたとえ話であり、実際にあったことではない。
だけど文化の価値というのはこういった流れでいとも簡単に人の
価値を変えてしまうことが多くあり、それになかなか気がつけることが
少ないのが現実なのである。そしてこのような流れは社会政治的であるにも関わらず、だからといって”自然”に起きた結果、と思うのも甘いのである。
この”自然”に見せかけた中で計算づくされ、色々な人間が特をしていることもあるだろう。例えば亡くなったリーダーを指示していた人達は神を匂わせるだけで世間に犯罪者や頭がおかしい、などという価値に惑わされ疑われるかもしれない。新しいグループはその価値によってさらに強い権力を持って世間をコントロールできる。そして牛という動物は野蛮だ、と理論づける学者が本を出し、トップセールを記録する。そういった学者が有名になり金を儲け、政治の手伝いをする。

社会文化の中で常にどこかで誰かが物事を利用しようとしている可能性は転がっている。そして今問いたいのは性についての話だ。極論と思われるかもしれないが筆者はそうではないと思う。日頃の生活で目にし耳にし、たくさん疑問に思って暖めて来た観念だ。

男性でも女性でも、筆者は若い頃から良く性の話を興味を持って話しだしていた。結構オープンだったせいか、相手も良く心を開いて話してくれることが多かった。そして良く会うようになったのがキョウダイとされている家族の一員と恋愛関係を持っていた、という人達だ。レイプされた、一時のお遊び、的なことではなく、愛し合っていたようなのだ。彼らは初めはとても話しにくそうにし、もちろんネホリ聞くようなことはしなかった。でも聞くにつれ真剣で、その真剣さにも悩み苦しんだようだった。そしてそういった彼らほど根が優しく、思いやりもあり、情が深く、人間的に”こんないい人でアメリカでやっていけるんだなあ(アメリカ人だから)”と思ってしまう人達だった。

でもこの思いは正しかったようだった。彼らはアメリカではやっていけない人だった、というよりも、やっていけてはいけない人達だったのかもしれない、と今は思う。

彼らには共通していることがあった。それは結局最後には心理科に通わされ、頭がおかしいレッテルを貼られ、ずっとその”crazy"という価値を背負い、受け入れ生きていっていたことだった。”もちろん、キョウダイで愛し合ってはいけないとはわかっていたし申し訳ないとも思う。でもほんとうに。。。(愛していたんだ)”とも言う。全てを語ろうとせず、途中で良く止まってしまう説明。でも彼らの話を聞いていると親の状況などもみてキョウダイというものしかわかちあえない何か大切なものがあったのか、というのが見えて来たような気がした。

ある女性は兄、と。ある男性は妹と。でもこの二人は両方ともHonorという特待生の学生だった。頭もいいし、責任感もある。でもこの過去を持つ事で、これを正当化できずずっと罪を感じ、自分を責め続けるようになっていたようだ。そして彼らの多くははそのキョウダイとは二度と話せない、という状態に近い関係になっている。(自分の関わった本当に少数の人間の話の中でのことですが)

筆者は近親相姦、というのをもっと文化的に考えるきっかけを与えてもらった。
こんな漢字4文字では表現出来ない関係も家族の中での恋愛にあるのではないか、と。
そして文化を出した意味は実は日本からの人間でも家族と恋愛関係を持っていたことのある人間を結構知っていて、アメリカの彼らとは比べならない精神的処理の仕方をしているような気になったのだ。

日本でしっている中には妹が兄に、姉が妹に、親戚から姪に、などあった。でも彼らは一時的に行ったことであり、恋愛とは同じではなく、良い思いでではないがずっと背中に背負って罪を感じ続けているアメリカの彼らほど重く感じていないようだった。そして大きな違いは”Crazy"というレッテルを大きく貼られていない、というところではないか。もちろん日本でもおかしいし許される事ではないが精神的な病気と判断され、そのキョウダイと二度と話せない、とまで罪を感じるというのはどれほどあるのだろう。もちろん、強制的な犯罪の行為の関係ならわかるがそうではないと当人同士がいう関係だ。筆者が知っている日本のこれらの方達は実はしっかりと良い関係を続けている。面白いことに結婚しても良く電話で話したり、冗談を言ったり、それほど仲良くない人達もいるだろうが、アメリカの彼らと比べると状態がほど遠い。

日本でも罪を感じて、色々な反応がもちろんあると思うがアメリカの彼らの犯罪、罪、頭のおかしい、普通の人間ではない、正常ではない、人間以下のような気にさせられ、心理病的に処理をさせられるこの経験というのはなんなのか、と考えさせられた。単に血がつながっているから?子供を作ってはいけないから?
この考えで誰が得をしていっているのだろうか。

保険が高いアメリカでは精神科に通う人間は限られているし、そこでもらう薬というのも高い。医者に通うこと自体が社会のステイタス、というのは60年代ごろから存在しているようだ。そして医者、薬屋、病院、色んな人間が精神病で富を得ているのは承知の事実ではある。たくさんの本も出ているし、心理系の博士号を持つもので金持ちは大学になんか残らず、個人でビジネスとして精神病を扱っている人が圧倒的に多いだろう。大学と製薬業者が提携し、政府も関わりこぞって競争し、国をまたいで薬の利益を広げたり、わざと国内だけの利益に限定するため、ビジネスを広げないようにコントロールしたり。

日本はどうなんだろう。ここ最近カウンセリングやセラピー、鬱病の
トリートメントが普及しだしたようだがこれもここ10年前後の話ではないか。
以前から存在していてのそれこそ精神的な病気、と捉えられること自体がタブーだったのでそう思ってもわざと医者にかからないことのほうが多かったのではないか。

日本では家族の間で血の濃い関係というのは以前からあったようだ。
強制に、無理矢理、ということも含めて(テンノウ制度しかり、従兄弟同士の結婚しかり)。そして父親が嫁と、お手伝いさんと、2号さんと、とたくさん関係を持っている間にいつのまにか血が濃くなっていることもあるようで。
苦しさや辛さから余計にそういった背景を真剣に取らずに
病的にもっていかずに前に進められるよう努力した人達がいて、
アメリカの状況との違いの背景が生まれてきたのかもしれない。

これは筆者がアメリカに住み始めて良く思ったことだった。
いい人に限って重い物を抱えていて、自分はいい人なんかではない、
頭がおかしいんだ、と訴えてくる。そして自分は家族と考えられないような
crazyなことをしてきたんだ、という。
筆者は”みんなCrazyなことをしてるよ。どこをCrazyととるかというのは
人の人生の背景の価値によるし、それがあなたをCrazyにさせてるんじゃなくて
Crazyと呼ぶのが一番手っ取り早い文化に自分達がいる、というのが問題なんだよ。”

ある女性教授と会って、日本の受験勉強の背景で時々母親が
ストレス気味の息子の思春期の性の欲望を助けることがあるのか、という
話になった。良くドラマや映画や話にでてくるアレだ。そういった話から
近親相姦の話に。筆者は”いやあ、実は自分は近親相姦も状況によってはおかしい、と思わなくてもいいんじゃないか、と思ってまして”と言ったら
”エ、実は私もそうなのよ”と話した。その教授とはもう7年ほどの付き合いで先日、”初めて会った時、こんな会話したね、”とこの話を出した。

この女性教授は正直魅力的な女性で強くて、弱くて、自分勝手だが
思いやりがある。かなりプライベートな話も聞いてないのに勝手に
話してくる。人間らしい彼女はとっても魅力的なんだがやっぱり
Crazyなんだ、と良く自分を卑下する。そんなアメリカ人のこの女性
も良く家族の話をする。薬も飲んでいる。家族のことを告白されそうになったが
筆者は黙って聞いていた。話したい時に話せばいいし、話したくなければ
それでいい。

アメリカ人の家族がCrazyなんではないし、
あなた達がCrazyなのでもない。Crazyに価値を置いて、
金儲けにして、病気にして、色々な犯罪の可能性も広げ
人々を”その考えから離れられないようにする”文化を
作ったアメリカが問題なんだ。
考えをやめなければやめないほど人々はもっとCrazy
を大宣伝するし、金も動くんだ。

よく考えて欲しい。自分をおかしい、と思っても
その裏には文化の流れがあり、それで特をしている人間がいることを。
そんなことで他人に利益を与えたいか、と考えて欲しい。
世の中には性のことにしろそうじゃないことにしろ
たくさんの事が勝手に判断され、それに人間の感情が振り回されている。
おかしいのか、偉いのか、美しいのか、痩せているのか、太っているのか、
顔が小さいのか、大きいのか、とにかくあなたの欠点と良い所は
なんなのか、と。別にその価値をやめろというのではなく、
自分達が振り回されている事の自己認識は必要であり、
それに価値を置いているからといって置いてない相手を
卑下して病気化するのが問題。誰かがいつも特をしていて
誰かがいつも辛く苦しんでいる、と。

文化の価値に踊らされて作られた精神のコントロールが
人を狂気にも正常にもさせる気がする。

つまり、やはり利益、権力、権威が正常なものを都合のいいように
狂気と追い詰め自分達の利益に持っていけるのだ。

どこかの大統領がいつもやっていることももちろんその一部。
"正義”という名のしたで悪人を創り上げ、殺戮を重ね、自分があたかも
反義語に値する良識人のように見せて来た。
もうその策略も時効になりそうだが。
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by flowfree | 2005-10-15 21:26 | 人類学