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アクティビスト、フェミニスト、クィアとして活動するとある外国大学関係者の生活の中からの視点。(C)flowfree 初めて寄られる方は、カテゴリ:管理人、の”こんにちは”を読んで下さい


by flowfree
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知識の見せびらかしという暴力

ふーこーだかでりだだかでぃあすぽらだかなんだかしらんが
そういう名前を抜かして面白い事がいえないのか、と突っ込みたい。
まあこれはカタカナ名前の理論発信者の名前を権威のツールとして使う、という
やり方についてなんですが。でもこれにはオチがあるので一番下を読んでみて。
(***学界に興味があり面倒だったらそれだけ読んでくれればいいです)

いや、相手がちゃんといて、前後関係の交流が出来ているのなら
新しい名前が出ようが理解できたりする。そしてそれらも知りたいし
お互いに刺激がしあえる。こういうのは暴力にならないことが多い。
なぜならお互いのある程度の共通の認識があるし可能な限り説明をして
お互いのスペース(会話、交流、理解のスペース)を尊重するものならそれは
暴力にはならないと思う。しかし学問に関わる、特にな〜ぜか
欧米、特にヨーロッパ関連の研究連中は知識のシェアを暴力的に
使ったりする人が良く目につく。最近ではなく、ン年も。

知識を増やして興味を持ち話すのはとってもいいことだが,
相手や状況を見てやるのが一人の人間として尊重されるのは当然のことであって
それを無視して相手をみず、前後のコミュニケーションを無視し
好き勝手にやる人は尊重されないということだろう。
話のないように前提や前後関係が見えないものを
いきなり始めて(例えばブログでも)
急に社会的地位(教授、院生)などを匂わす話をしたりなんていうのも。

それらの必要のないところでさらけ出したり話し始めたり
して自分を主張や表現するというのは全くもって
immature, childishというかその人の人間性を疑う。
相手への尊重性も感じられないだけではなく、
自分のエゴしかみえません。
そういう必要の無い、前後関係のないさらけ出しをされるのは
特に権威が関連するものはこちらがゴミ箱に使われているようにも感じる。
他人を尊重したいのなら話の流れというのは大事だし
エゴを見せたいならエゴを見せたい同士でやってもらいたい。

相手を見てそういう態度が嫌かもしれないという判断を
成長するにあたって持てる人間になってほしいし、こういう話しをするのはどう?
などと聞くのも礼儀であると思う。特にお互いを良く知らないなら。
それにどーせそんなことをやられたらこちらとしてもそれなりの”ゴミ箱”にいれることになる。

文字の場合は印刷にしろメールにしろその名の通りTrashやdeleteしてゴミ箱へ。
そして形はないが言葉として消費されるものは”うわさ話”というゴミ箱へ行くに
値するのかもしれない。それも構造的に状況が向上するかもしれない
”議論”ではなく、あくまでも”うわさ話”という程度の低いゴミにしかならないものだ。
人との交流のスペースや会話(ブログも)もなるべく尊重を持ち
ゴミ箱行きに使って欲しくないと
思ったりする。

そんな事をしなくてもあなたがの人間性というので人は見るので
いつも自分の知識の宣伝しなくっても大丈夫だよ。
知識や議論をすることに興味があるのなら
必要のないところでやらずに大事なところでだけしましょうよね。
そうじゃないと他人をとても不快にしてしまう要素になり
そのつもりがなかったらなおさら残念なことになります。

人の振り見て我が振りなおせ、とは良く言ったもので
こうならないように、人間修行を続け、感じた時に書いて
また自分らに忘れないような心がけをしたい。

***ちなみにカッコツケヨーロッパ系名前を頻繁に意見にだして
権威的に見せるっていうこの”アホらしい知識ゲーム”現象は
前々から欧米でも問題になっているのだが(日本では問題にはされてないかもね)
流行の名前、っていうのが年代や国、文化によって変わったりするのが
また面白い。例えばン年前にふーこーが権威的なシンボルとして学界で
不必要に名前を連呼されていた時があったのだが
ある時なんかフランスで勉強していたやつらに”ふーこーなんてフランスではもう誰もそんな風に使わないよ”とさらっと言われちゃって、
今まで連呼していたやつらは黙ってしまい、あまりやらなくなった、という
鶴の一声、というかヨーロッパ人の一声、というのが北米では
良く効くと感心したりすることがあった。

結局は名前を出しても出さなくても面白い人は面白い意見を言うし、
逆に人の名前に頼る人間は全てがどっかの資料から来てると思い、
”・・・それでその意見は誰が言っていたものなの?”なんて
言って来たりするという驚いた事があったりする。
それほど北米でもオリジナルは珍しいってことなんだけど
まあ日本も同様な部分は多いと予測できる。

結局”〜(どこどこの場所という権威的な場所)
ではもう使わないよ。恥ずかしいよ、そんな人の名前や
アイデアを未だにみんなの前で言ってるなんて”
といわれちゃって、使わなくなる、っていうことは
”そのアイデアがどーのこーのというよりも、
それを使う、ってことがシンボルになってしまい、
それも権威と言うシンボルだったのだがもうパワーが落ちてるので
使ってもしょうがない”ということのようだ。

やっぱりこれは意味が伴わない、
単に権威を誰が一番見せびらかせるのかというゲームであって
いきなり根拠もあまりわからない”権威的環境経験者”の一言で
負けてしまう。このゲームは”フランス経験者”が勝ってしまうということで
内容が関係ないのがわかってしまう。
Playstationでどーせだったらこんなゲームを出したらどうか。
ポケモンのように、石油合戦でアメリカ対日本の代表を出して戦わせて
アメリカが勝ったけども、United Arab (それかリビアか?)の代表が来たら
戦う前にアメリカ負けた、みたいなもんなんだろう。

まあそれだけば〜からしい、って事だと書けば書く程さらに確信してしまった。
by flowfree | 2005-11-16 18:07 | 権力社会というもの