アクティビスト、フェミニスト、クィアとして活動するとある外国大学関係者の生活の中からの視点。(C)flowfree 初めて寄られる方は、カテゴリ:管理人、の”こんにちは”を読んで下さい


by flowfree
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリ:海外暮らし( 1 )

留学、外国語習得、海外暮らし自体がステップアップではなく、
その中での経験がもしかしたら何らかの自己向上に関わるかもしれない。
留学、海外暮らし、海外旅行をしただけで
より優れた気になるのはとんだ間違いです。
その経験を自分の後の生活の仕方にどう持っていくか、
というのがポイントであって、この経験を
人によってはステップダウンに持っていくこともあるだろう。
だから

”留学してたんだよ。””海外旅行を結構してまして”
”~語が話せてね””海外で暮らしてまして”

と言われたら
”へえ~、そりゃあ勘違いしちゃったでしょうねえ。
人より偉くなった、なんて思ってたら大間違いだっっていうのわかるよね。
外国語を使う仕事にこだわる前に人間性を磨け!っていうの良くわかるよね”

なんて言ったらまず嫌われると思いますが
もうちょっとやんわりと表現を変えて議論に持っていくのも手だと思います。
なぜなら現実にこういったことを気づかせることも
先々差別的観念を脱構築していくには必要ではないかと思うからなのです。

西欧中心主義の中でなにも批判的にみず
留学や語学習得や海外経験をいつのまにか
自分が人より優れた理由に位置付けている人間を
多く見てきて好い加減こういった価値をぶち壊したくなってきてしまいました。

とりあえず、人より優れているとは思ってなくても
そういったことは自分に、そして他人に、
国的にどんな意味があるのだろうか、
そして後にどういった意味でとられるか、というのを色々と考えて行きたい。
日本での外国語習得、海外経験という文化的意味を
他の国や文化の状況とある程度比較して考えてみたいと思う。

留学、海外暮らしでナニが大きく違うか、というと言葉だろう。
日本は統一の言葉の日本語というのがあり、他のどこの国でも
共通語としては現在使われていない(もちろん、植民地支配された
国では多少知識や利用者が残っている)。
だから日本の国を出るということだけで
外国語の知識というのがどうしても関わってくる。

これが他の国とちょっと意識が違うことで、
多くの外国では留学、海外暮らしが言語の勉強にすぐ関わることではなく、
言葉を学んで人よりスゴイ、とすぐ思うこともないと感じる。
新しく学ぶ言葉の操りが関わらないと留学、海外暮らしイコール”スゴイ、偉い”
ともなるわけではないような気がするから新しい言語
というものがないところでは経験の”上下”を図るとしても
その”図式”は横線に近いかもしれない。
例えば多少の訛りやアクセントの違いがあってもお互いが英語という共通語を使う
アメリカ人、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人
がお互いの国に住み、留学するだけでも
それなりにお~!思い切ったなあ、という、文化の違いを超えてのスゴイ、偉いなあ、というのは出てくる。
だけどもそれはやっぱり経験、ということが主に出てくる事で
人間性が伴わなければどうにもならないな、って話だろう。
だからそれをしただけで人より優れてる、なんて概念は
なかなか頭をよぎらない気がする。

ただ、そんな英語圏の人が日本で暮らす、韓国に留学、
中国で仕事、フランスで、ドイツで、・・・となると
へえ~、他の言葉を操れるんだな、なかなかやるなあ
という意識はでる。だからそんな言語をできるやつらは
自慢だったりする。特にアジア圏の言葉をヨーロッパ人や北米人が
やるようになると自慢でしょうがない。アルファベットで
学ぶ言語とは大変さがかなり違う、という意識があるから。
ヨーロッパ人が英語を、英語圏の人がヨーロッパの言語を
学ぶところにはお互いの文化的憧れなどが関わり、
かっこいいなあ~っ、素敵だわ~ていうのはあるかもしれないけども
大変さへのイメージ、という点ではアジアの言語を操る人達
にはかなわない。

でもやっぱりその言葉を使ってどうなのよ?ということが問われる。
ビジネスや教育に使うもよし、それに単に趣味を広げて
友達を増やすもよし。ただ、その新しい言葉や経験を
超えて自分達の人間性、価値観にどうやって充実されてるのよ?
っていうのが問われると思う。

そこでまた長い枕詞だけども
日本ではどうなんだろう。先に言ったように留学、海外暮らしが
イコールして新しい言語の操りが入るので
”人より優れている、偉い”
というイメージが関わることが強い。
北米やヨーロッパの言葉だと素敵だなあ、かっこいいなあ、
というイメージ、アジアの言語だと西欧中心主義の
下で教育される日本ではそれほど素敵なイメージは比較的ない。
だけどもアラブ語など人がやらない言語への大変さを
伴うイメージからはやぱりすごいなあ、というのがでる。

留学ではなく、日本のなかで新しい経験を始めるというのと
違うのはやっぱり言語が同じ環境にいる、というのと
その言葉で日々苦労するようなところがないというところ。
だったら日本で新しい経験をしたほうが
言葉を理解した上でのことなので
もっと体感的に上を目指せるのではないか、
という気もしてくる。もちろん、語学が違うところで
日本では経験しなくてもいい生活に必要な初歩的な
ところで苦労するのも体感的な経験だろう。

ただ、経験に上下をつけるのもおかしい、という
ところで考えると日本で新しいこと(例えば新しいことを学ぶ、
習うこと)をするのと海外同じことをするという経験にも
上下はない。でもあたかも海外でやってるほうが
スゴイ、と思えていくのは言語である。
そこで先に話したように言語も個人の先々に意味づけてナンボ、
ということを考えると、それは日本で新しいことを経験した
時期で使用した日本語(専門用語など、なんでも)
だって個人の先々に意味づけてナンボのものだろう。
そうなるとやっぱり新しい経験を海外でしようが、日本でしようが、
上下付けることは意味がなくなってくるだろう。

じゃあなぜ誰もがするように海外での経験に”上”を付けてしまうのだろうか。
このことの意味合いを考えたい。
日本での経験組みと海外、語学習得組みを差別化することによって
ナニが起こり得るのだろうか。
特に学問の中では西欧中心主義から離れられない専門科目
がたくさんあり、そしてそれが当たり前の議論の構築が
行われているところでは
どういった意味があり、その意味がどうやって仲間内で消費されていくのか。

その上で西欧中心主義に乗った人間の影響は?

学問だけではなく、留学して”仕事の幅を広げる。語学を生かした仕事をする”
と(私には訳のわからない理由付けだが)仕事を得た人間達が
仕事を通じて行う言動の影響はどうか。
そこで上下ができ、またさらに上下の価値を助けて行っているようだ。
日本の中での差別はこのままでは全く変わらない。

不思議なことにこういったことに常に敏感であると
思っていたある海外暮らし、留学が長い友人も
日本に戻って話すと無意識に誰もわからないような
英単語を使って仲間内のヒエラルキーを刺激していた。
周りの人間もその単語がわからない、という気まずい
ことは言えず無視して相手の話しの前後関係から
意味を得る。
私もこれには敏感だが経験を否定する気はないので
頭でなんとなくこれは使ってこれは使わないとしている。
ブログでいいのは相手の経験を知らないので
あまり敏感になりすぎてもしょうがない、と思えるところだ。
ある程度自然にやっているけども
多少は言葉使いも気を使っている。

留学、語学習得、海外経験が悪いのでは全くない。
それを意味も無く人より優れているという位置づけに
持って良くのはさらに日本でのヒエラルキー制度を助け、
差別、偏見構造を円滑にしていくことだ。
これらを脱構築するにはなにができるのか。
とりあえずもっと考えて色々と訴えていっていきたい。

ちなみに日本語でプライドを持つ、という意味と
英語でのI am proud of ~
という意味は違うと思う。
私は日本語でのプライドを持っていないことは多いけども
英語でのは結構ある。
さあ、どうやって翻訳していいのか、すいません、わからないんですけども。。。
[PR]
by flowfree | 2006-01-11 02:00 | 海外暮らし