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アクティビスト、フェミニスト、クィアとして活動するとある外国大学関係者の生活の中からの視点。(C)flowfree 初めて寄られる方は、カテゴリ:管理人、の”こんにちは”を読んで下さい


by flowfree
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いやいや知らなかった。阪神タイガースの赤星選手は2003年から
自分の盗塁の数だけ車椅子を施設に寄付しているという。阪神タイガース公式サイトでその施設の募集をしっかりしている。これには感心させられた。

世間には仕事や活動で金や名声を得ているのにそれを時には
”アクティビズム/活動です”と称してしまう人が実は少ないない。
これは日本も北米もどこでもなぜか見られる現象ではないか。

”自分は夢を与える仕事をしているので”
”人を教育する仕事をしているので”
”マイノリティについての作品・研究なので(女性、同性愛者、障害者など)”

もちろん、金儲けだけが目的のこととは違う種類であろう。
だけども実際に一銭も特にならず、逆に払うことにもなりうる活動や
自分の自由な時間とエネルギーを掛けて活動している人達は
それらの活動を違った意味で評価されるべきであり、
その大きな違いは認識されるべきだ。
同様に”自分も仕事で日々アクティビズムをしてるから大変で”
なんてほざく方々は勘違い甚だしい。

自分の研究や仕事が他人のためにもなるかもしれない。
しかし同時に自分の利益にもなるしお金が発生している。
そんなことを”世間への貢献目的”に類似化、偽善化し
自分を他のアクティビズムと同等に見てもらおうというのは間違いだ。
この場合誰もが持っているエゴが関わっているというのを認識するのが必要だろう。

アクティビズムという意味にあてはまらないかどうか、というのは
筆者もわからない。ただ、違いを認め、他のタイプのアクティビストに
尊敬を払う意味を込めその違いを最低でも認識し、
もっと心あるべき人間は主張してもいいと思う。

個人同士で勘違いして話しているのはいいが
社会の中でそれを当たり前に話す学者やメディア業界の人間を
見るとその人間への評価がガクンと下がる。

そんな事を日々感じているなか、この赤星選手の話には
驚いた。野球には日頃あまり感心がなかったのだが
彼がヨン様ファンのおばさま達をも感心させている、と
雑誌で読んだ。そしてそういう赤星選手の行動を
見てファンが続々と増えているのだそうだ。

なかなか興味深い流れだ。どの程度の現象なのか全くわからないが
車椅子を使うカゾクがいる筆者にとってはかなり赤星選手の
行動が心に響いた。福祉活動といっても色々とあるが
(友人のバンドメンバー達は女性専用の監獄プリズンにいって演奏、など)
車椅子の寄付、というのに興味が出た。なぜこれを選んだんだろう。

現在車椅子業界も進んでいて、年の若いカゾクが使うものはカラフルで
かわいくて、車が動くとキラキラとラメのようなスパンコールのようなものが
光るのだ。実際車が光ったほうが移動するときに色々と助かる。
映画館に行く時だって、おしゃれなレストランに行く時だってこれが
助かる。でもこんな需要があるとは見るまで知らなかったから
自分の車椅子事情の無知さを感じさせられた訳である。

だからさらに赤星選手の福祉への興味や選択の経緯に好奇心がわくし、
これからの活動(もちろん活躍もだが、活躍しなくても個人の人間性に
興味があるのでそれは後)に目を見張りたい。

野球界で他にもこういった活動をされている人はいるんだろうか。
彼は今年で28歳らしい。この年代ではどうなんだろう。
もしかして野球文化の”常識”や歴史を考えると
赤星選手の身を削る行動はラディカルなのかもしれない。

(*ちなみに、日本や北米では
”ちょっと社会から外れた行動をした方達が法に罰せられる代わりに、”
”上の人間に反発し、追い出される代わりに”
大きな福祉活動をかなりの期間要求されることがある。ある演歌歌手は個人事務所の設立にあたって業界を干されない代わりにチャリティーコンサートを続けていた、というのは有名な話のようだ。暴力沙汰を起こしたある芸人は謹慎中にボランティア。北米では起こしてしまった事柄によって〜時間、と奉仕活動をするようになっていて良く耳にする。正直野球界の事は本当に勉強不足なのでまさかそんなことはないだろう、というのを前提に話して書いた記事です。)
# by flowfree | 2005-10-19 15:40 | アクティビズム

恐ろしい映画業界

みなさん、お仕事のパーティーというのに行ったことありますでしょうか。
それもコネ作りが目的の。
これらは仕事をしてたり、何らかのグループに関わっていれば
集まりに行って宣伝したり、知り合い増やしたりの大事な行事なのでしょう。
大学にももちろんありますよ。例えば自分は違う大学に移りたい、
違うポジションを得たい、偉い役職が欲しい、賞が欲しい、
まあとにかくなんでも上の人や特になる人とうまくやっていくことに
悪い事はないですが他人にゴマすりをしたり、思ってないことを言うのは
やりたくないですよね。筆者はそういうのだいっきらいですよ。もちろん。
やらなきゃいけない、っていうのは時々ありますが
人の顔からいやらしいさや欲望が見えると吐き気がします。

さて、しかしもっとスゴイ吐き気や頭痛や人間不信になるのが
映画業界の集まり。これは大学関係者のモノとは比べ物になりません。
映画業界は役者、監督などを含め、かなりの実力を持っていても
運とコネがなければ認められないんです。
映画業界の"成功”の基準というのがまた上を見ればきりがないほど上があって、
その差も恐ろしいほどある。

例えばある監督は映画館で一本の映画を上映できるものを作り
色々な国で呼ばれ、それぞれの映画祭で特別扱いされ、
さらに新しい作品を作りやすくなり、紹介され、また出品し、映画祭へと忙しく周る。
これは成功とも見れるだろう。ただこの監督は個人営業。
映画監督と言えど映画祭で呼ばれても払ってもらえるのは旅行費、
ホテル費くらいでその間の基本的な食費や交通費などの費用は自分もち。
いや、どこか大きな会社に所属していれば会社が全て持てたり、さらに
関係者を連れていって、大宣伝もできる。
だけど個人では映画祭に呼ばれる度に、費用が重なってしょうがない。
そして色々な国に呼ばれて、その国々が比較的近くても、
映画祭の日にちが近くなければまた家に戻り、数日してすぐに経つ、というのは
日常茶飯事。映画祭の人間も同時期にわざと重ならないようにしないと
映画も上映できなかったりと色々と都合がある。

個人での監督であれば色々な国も行きたいし、宣伝もしたいし、
他に呼ばれている監督と会って話したりコネも広げたいが
旅行疲れで時差もあってやりたい仕事も遅れたり、体がついていかなかったりする。
かなり酷なのだ。
しかし個人だからそういうところに行かないとコネが作れない。
それにその間にお金が入るほかの仕事もやっていたほうが望ましい。
作品もたくさん作らないといけないし、その間にお金も必要だ。
"成功”と一言言うと、作品が国々で認められてきているといういみでは
成功かもしれないが、この監督には金銭的な安定からして
ちゃんと成功を掴んでいるとは思えないのだ。

だから逆に誘われた映画祭の中でどれに参加して、誰が来るか、というのを
事前にチェックするのはとても重要でそれをみて優先順位をつける。
たまたま行く事にした映画祭でスゴイコネが出来たら万々歳だ。

という上の例でわかってくれると思うが、こんな時のコネ作りへの
熱意、興奮、テンション、勢い、というのがハンパじゃない。
お金と時間と将来と地位と名声と何もかもが”この一瞬”で決まるかも!!
しれないのだ。ちょっと大げさ、と思われるかもしれないが
上の状態の人間のことを考えてほしい。日々、”なんで外国でも
認められている映画監督がこんなバイトしないといけないんだよ”
と落ち込んだりしていたりする。それが超有名監督が来れば
現在関わってる作品を宣伝して、見せて、連絡して、
感想を聞いて・・・というステップの繰り返しでそんな状態が覆(くつがえ)せる
かのしれないのだ。

というか、映画業界の人間は、こういう手順でしか成功を手にいれられないのだ。

だから集まりでの命の賭けたコネづくりというのはもう凄まじい。
ある友人はいつもは楽しく思いやりを持って話しているのに
映画関係の集まりではガラッと性格を裏を返したように変える。
友人と話したりすれば自然とどーも、とみんなと話していくが、
彼らにとってはヒトと知り合うと言う事が財産。他人に関係者を
紹介すればするほど自分が得られる可能性が低くなる、と見る。

映画業界を考えればしょうがないのかもしれない、とも思える。
本当にみなが必死。生き残れない人間がほとんどなのだ。

しかし筆者はアクティビストと自負している。こんな人間関係に
人権なんてあるわきゃあない。実力がないものでも、
"重要”な人物と知り合い、仲が良ければ持ち上げられ、鼻高々。
実力が凄くあり、人間性も魅力的がある人物でも
”ナニモナイ”人間だったら存在さえ気づかない。

でも”ナニモナカッタ”人間がもしなんらかの形で次の日に
きっかけや運を掴むとドワーっと人が寄ってくる。

まあ芸能の世界ではよくあることかもしれない。
初めに言ったようにどこの世界でのある程度あることだ。
ただ、映画業界というのの特殊性というのもあると思う。
映画、映像、という芸術作品であって、良い、悪い、の基準もなかなか掴めない。
でも映画業界が北米のエンターテイメント事業をかなりの率で握っているのも事実。
たくさん企業も関連しているし政府も補助する。
それを踏まえてこの業界、恐ろしいことがた~くさん関わっているんである。

これについてはちょくちょく書いて行きたいと思う。
結構ネタは暖めていて、業界の汚い部分を暴露していきたい。
# by flowfree | 2005-10-18 15:41 | film
増村保造の「音楽」という三島由紀夫の本を元に作られた映画のレビューをakaboshiさんのブログで読んで重い腰を上げてそうろそろあれに関わる記事を書いてみようか、と思い始めた。あれというのはカゾク間の恋愛の話。それが良い、悪い、ということを話すのが目的ではなく、その行為にまつわる多数の文化的な繋がりを配慮し、カゾク間の愛、というのはどういったことなんだろう、どんな事が関わっているんだろう、と考えてきたことを少しづつでも頭を整理して記録して行きたい、と思った。誤解を与えたくないため説明や例を書き長くなるが自分にはコレを記録することは大事なことであって、読んでくれる方がいたらさらに考えてくれたら嬉しいし、読んでもらえなくても自分の頭が整理できて考えをもっと洗練できたらいいなと思っている。コレに関する観念は色んな視点から話す事ができるが今回はその一部、文化的影響とその違いについて考えたい。

一つの事に対しても文化が違えばものの価値は様々。
牛にしてもある所では神様と見られ(神と行っても拝むような存在とは違って雑に扱ったりすることもあり)、ある所では財産の象徴だったりする。

でも例えばそんな文化にもある社会政治的変化が起き、神、と例えられたリーダーが亡くなり、反リーダーだった新しい権力者が、存在していた
”牛は神”という価値を壊すことにした、としよう。牛は亡くなったリーダーの神的存在を思い起こさせる手助けをする、と思われた。牛はそして動物であり、牛を神とみることは野獣を人間と見ているようなもの。二つを合わせると悪魔の姿のようではないか。それこそ神を野獣と一緒にするのは何事か。そんな論理が続けられ、都会では牛を神と祭るのは禁じられ、危険と見られるようになり、牛を祭る人間を見ると悪魔崇拝と見られたり、頭がおかしい、と思われたり、犯罪者と扱われるようになった。

上の話はたとえ話であり、実際にあったことではない。
だけど文化の価値というのはこういった流れでいとも簡単に人の
価値を変えてしまうことが多くあり、それになかなか気がつけることが
少ないのが現実なのである。そしてこのような流れは社会政治的であるにも関わらず、だからといって”自然”に起きた結果、と思うのも甘いのである。
この”自然”に見せかけた中で計算づくされ、色々な人間が特をしていることもあるだろう。例えば亡くなったリーダーを指示していた人達は神を匂わせるだけで世間に犯罪者や頭がおかしい、などという価値に惑わされ疑われるかもしれない。新しいグループはその価値によってさらに強い権力を持って世間をコントロールできる。そして牛という動物は野蛮だ、と理論づける学者が本を出し、トップセールを記録する。そういった学者が有名になり金を儲け、政治の手伝いをする。

社会文化の中で常にどこかで誰かが物事を利用しようとしている可能性は転がっている。そして今問いたいのは性についての話だ。極論と思われるかもしれないが筆者はそうではないと思う。日頃の生活で目にし耳にし、たくさん疑問に思って暖めて来た観念だ。

男性でも女性でも、筆者は若い頃から良く性の話を興味を持って話しだしていた。結構オープンだったせいか、相手も良く心を開いて話してくれることが多かった。そして良く会うようになったのがキョウダイとされている家族の一員と恋愛関係を持っていた、という人達だ。レイプされた、一時のお遊び、的なことではなく、愛し合っていたようなのだ。彼らは初めはとても話しにくそうにし、もちろんネホリ聞くようなことはしなかった。でも聞くにつれ真剣で、その真剣さにも悩み苦しんだようだった。そしてそういった彼らほど根が優しく、思いやりもあり、情が深く、人間的に”こんないい人でアメリカでやっていけるんだなあ(アメリカ人だから)”と思ってしまう人達だった。

でもこの思いは正しかったようだった。彼らはアメリカではやっていけない人だった、というよりも、やっていけてはいけない人達だったのかもしれない、と今は思う。

彼らには共通していることがあった。それは結局最後には心理科に通わされ、頭がおかしいレッテルを貼られ、ずっとその”crazy"という価値を背負い、受け入れ生きていっていたことだった。”もちろん、キョウダイで愛し合ってはいけないとはわかっていたし申し訳ないとも思う。でもほんとうに。。。(愛していたんだ)”とも言う。全てを語ろうとせず、途中で良く止まってしまう説明。でも彼らの話を聞いていると親の状況などもみてキョウダイというものしかわかちあえない何か大切なものがあったのか、というのが見えて来たような気がした。

ある女性は兄、と。ある男性は妹と。でもこの二人は両方ともHonorという特待生の学生だった。頭もいいし、責任感もある。でもこの過去を持つ事で、これを正当化できずずっと罪を感じ、自分を責め続けるようになっていたようだ。そして彼らの多くははそのキョウダイとは二度と話せない、という状態に近い関係になっている。(自分の関わった本当に少数の人間の話の中でのことですが)

筆者は近親相姦、というのをもっと文化的に考えるきっかけを与えてもらった。
こんな漢字4文字では表現出来ない関係も家族の中での恋愛にあるのではないか、と。
そして文化を出した意味は実は日本からの人間でも家族と恋愛関係を持っていたことのある人間を結構知っていて、アメリカの彼らとは比べならない精神的処理の仕方をしているような気になったのだ。

日本でしっている中には妹が兄に、姉が妹に、親戚から姪に、などあった。でも彼らは一時的に行ったことであり、恋愛とは同じではなく、良い思いでではないがずっと背中に背負って罪を感じ続けているアメリカの彼らほど重く感じていないようだった。そして大きな違いは”Crazy"というレッテルを大きく貼られていない、というところではないか。もちろん日本でもおかしいし許される事ではないが精神的な病気と判断され、そのキョウダイと二度と話せない、とまで罪を感じるというのはどれほどあるのだろう。もちろん、強制的な犯罪の行為の関係ならわかるがそうではないと当人同士がいう関係だ。筆者が知っている日本のこれらの方達は実はしっかりと良い関係を続けている。面白いことに結婚しても良く電話で話したり、冗談を言ったり、それほど仲良くない人達もいるだろうが、アメリカの彼らと比べると状態がほど遠い。

日本でも罪を感じて、色々な反応がもちろんあると思うがアメリカの彼らの犯罪、罪、頭のおかしい、普通の人間ではない、正常ではない、人間以下のような気にさせられ、心理病的に処理をさせられるこの経験というのはなんなのか、と考えさせられた。単に血がつながっているから?子供を作ってはいけないから?
この考えで誰が得をしていっているのだろうか。

保険が高いアメリカでは精神科に通う人間は限られているし、そこでもらう薬というのも高い。医者に通うこと自体が社会のステイタス、というのは60年代ごろから存在しているようだ。そして医者、薬屋、病院、色んな人間が精神病で富を得ているのは承知の事実ではある。たくさんの本も出ているし、心理系の博士号を持つもので金持ちは大学になんか残らず、個人でビジネスとして精神病を扱っている人が圧倒的に多いだろう。大学と製薬業者が提携し、政府も関わりこぞって競争し、国をまたいで薬の利益を広げたり、わざと国内だけの利益に限定するため、ビジネスを広げないようにコントロールしたり。

日本はどうなんだろう。ここ最近カウンセリングやセラピー、鬱病の
トリートメントが普及しだしたようだがこれもここ10年前後の話ではないか。
以前から存在していてのそれこそ精神的な病気、と捉えられること自体がタブーだったのでそう思ってもわざと医者にかからないことのほうが多かったのではないか。

日本では家族の間で血の濃い関係というのは以前からあったようだ。
強制に、無理矢理、ということも含めて(テンノウ制度しかり、従兄弟同士の結婚しかり)。そして父親が嫁と、お手伝いさんと、2号さんと、とたくさん関係を持っている間にいつのまにか血が濃くなっていることもあるようで。
苦しさや辛さから余計にそういった背景を真剣に取らずに
病的にもっていかずに前に進められるよう努力した人達がいて、
アメリカの状況との違いの背景が生まれてきたのかもしれない。

これは筆者がアメリカに住み始めて良く思ったことだった。
いい人に限って重い物を抱えていて、自分はいい人なんかではない、
頭がおかしいんだ、と訴えてくる。そして自分は家族と考えられないような
crazyなことをしてきたんだ、という。
筆者は”みんなCrazyなことをしてるよ。どこをCrazyととるかというのは
人の人生の背景の価値によるし、それがあなたをCrazyにさせてるんじゃなくて
Crazyと呼ぶのが一番手っ取り早い文化に自分達がいる、というのが問題なんだよ。”

ある女性教授と会って、日本の受験勉強の背景で時々母親が
ストレス気味の息子の思春期の性の欲望を助けることがあるのか、という
話になった。良くドラマや映画や話にでてくるアレだ。そういった話から
近親相姦の話に。筆者は”いやあ、実は自分は近親相姦も状況によってはおかしい、と思わなくてもいいんじゃないか、と思ってまして”と言ったら
”エ、実は私もそうなのよ”と話した。その教授とはもう7年ほどの付き合いで先日、”初めて会った時、こんな会話したね、”とこの話を出した。

この女性教授は正直魅力的な女性で強くて、弱くて、自分勝手だが
思いやりがある。かなりプライベートな話も聞いてないのに勝手に
話してくる。人間らしい彼女はとっても魅力的なんだがやっぱり
Crazyなんだ、と良く自分を卑下する。そんなアメリカ人のこの女性
も良く家族の話をする。薬も飲んでいる。家族のことを告白されそうになったが
筆者は黙って聞いていた。話したい時に話せばいいし、話したくなければ
それでいい。

アメリカ人の家族がCrazyなんではないし、
あなた達がCrazyなのでもない。Crazyに価値を置いて、
金儲けにして、病気にして、色々な犯罪の可能性も広げ
人々を”その考えから離れられないようにする”文化を
作ったアメリカが問題なんだ。
考えをやめなければやめないほど人々はもっとCrazy
を大宣伝するし、金も動くんだ。

よく考えて欲しい。自分をおかしい、と思っても
その裏には文化の流れがあり、それで特をしている人間がいることを。
そんなことで他人に利益を与えたいか、と考えて欲しい。
世の中には性のことにしろそうじゃないことにしろ
たくさんの事が勝手に判断され、それに人間の感情が振り回されている。
おかしいのか、偉いのか、美しいのか、痩せているのか、太っているのか、
顔が小さいのか、大きいのか、とにかくあなたの欠点と良い所は
なんなのか、と。別にその価値をやめろというのではなく、
自分達が振り回されている事の自己認識は必要であり、
それに価値を置いているからといって置いてない相手を
卑下して病気化するのが問題。誰かがいつも特をしていて
誰かがいつも辛く苦しんでいる、と。

文化の価値に踊らされて作られた精神のコントロールが
人を狂気にも正常にもさせる気がする。

つまり、やはり利益、権力、権威が正常なものを都合のいいように
狂気と追い詰め自分達の利益に持っていけるのだ。

どこかの大統領がいつもやっていることももちろんその一部。
"正義”という名のしたで悪人を創り上げ、殺戮を重ね、自分があたかも
反義語に値する良識人のように見せて来た。
もうその策略も時効になりそうだが。
# by flowfree | 2005-10-15 21:26 | 人類学
舞踏家 大野一雄の終わらない表現活動_b0058997_16303587.jpgKazuo Ohno: I Dance Into the Light (Germany 2004, 60min)
Peter Sempelという監督が作った 大野一雄という1906年生まれの舞踏家の映画を観た。舞踏という見ただけではなかなか理解できないダンスを大野氏による永遠に続くと思わせる強烈な動きの表現で魅せ、彼のスタジオに学びに来る世界中からの生徒達の眼も通し、観客を色々と考えさせる。息子のよしとさんが主に解説をしているんだがまず驚くのは大野氏が主に話して表現している映像は彼が83歳頃のもの。それでドイツの白人女性プロのダンサーにも弟子として一生懸命教えている。昔の映像では戦争直後の舞踏を始めた頃のダンスというのが写されていた。白黒の映像に顔面が真っ白に塗られている黒い髪の大野氏。真っ白い布のような服装をして底の深い大きな井戸のような穴から何か重そうな物を引っ張る。すると真っ黒の服装をして顔もストッキングのようなもので覆られている不気味な人間が出てくる。黒く焦げた人間のようにも見える。白い服装の人間が戦争で燃えて亡くなった人を助けようとしているのだろうか。それとも悲しみのあまり白い服装の人間の方の気が触れてしまい、亡くなった誰かをストッキングで覆い、弄(もてあそ)んでいるのか。

映像は結構ショッキングなものも多い。例えば大野氏がゆっくりの動きで豚小屋に入り、大きな横たわった豚に近づいて行き、そしてゆっくり口を豚の乳に近づけ吸いだす。ずーっと吸っている。これをショッキングと思って見ていたが横の知らない客で笑っている人間もいた。これは楽しんでいいのか、驚いていいのか。息子のよしとさんの解説は”あそこまでやるとは思いませんでしたねえ。” やっぱり反応は人それぞれ、ということか。

大野氏は胎児の時の表現はまた違う、などと何度か言っていたのでその豚の乳を吸う行動も胎児、大人、動物、豚、人間、メス、男性、などと色々と複雑な意味ああるのかも、と考えてしまった。きっと答えはないんだろうとも思うが。

大野一雄氏は土方巽氏と共に表現の考え方の違いから舞踊から追い出され、舞踏を始めた、と説明される。以前メゾン・ド・ヒミコの映画についてちょっと書いた時に田中泯氏は土方氏を師と仰いでいるそうだ、と書いた。赤児麿という舞踏ダンスから色々な舞台を挑戦している役者も(赤児氏は殺し屋一という映画の主人公のイチを演じた役者大森南朋の父親)元々は土方氏の派だったと聞いている。なかなか奥が深すぎて勉強してもしたりない・・・

大野氏はこの映画で2000年を過ぎた時のイベントにも時には車椅子で出演している。若い生徒さん達と昼間のきれいな花畑の真ん中での舞踏。数人の生徒さんは白い服に顔にはバレーボールを半分切って目に横線だけを入れた、またまた不気味なお面をつけ、黒い三つ編の頭でダンスをしている。ボールが跳ねているような意味なのだろうか。わからないけど色々と考えてしまった。

舞踏家 大野一雄の終わらない表現活動_b0058997_1731058.jpg監督がドイツの大野氏の弟子で髪の毛を全て剃っているダンサー、タニヤに”(やっていることは)あくまでも暗い道へのステップですか”と聞いた。ゆっくりの雰囲気、主に黒と白だけの色使い、悲しみや痛みを感じさせる表現は"究極の暗さ”を表現しているのか、と見られているように思えたのかもしれない。でもタニヤは”え?暗い道へのステップ?”と聞き返し、微笑みながら”いいえ、明るい道へのステップよ”と答えた。

このシーンが印象的だ、と思ったら、これがこの映画のタイトルに引っかかってると気が付いた。そうそう、大野氏の表現はゆっくりな悲しそうな動きから激しい動きと様々で、
時には花を一輪持って動いていたり、花畑のなかで表現したり。
実は筆者も明るい何かを求めているように見えた。だから監督が
暗さについて聞いたときに、”アッチャ~・・・ダメだよ、そんなこといっちゃあ・・・”
と思ってしまった。暗さだけでの表現と見られてしまうのはちょっと理解ないですよね。
大野一雄さんのサイトで彼の歩みなど色々とかなり詳しく読めるので
結構学べた。でも大野氏、土方氏、田中氏と赤児氏の間でも結構な
ポリティクスの違いがあるようなのでもっと知りたい、という知的好奇心を刺激された
映画だった。映画は英語と日本語でした。日本でも見られるものが結構あるようなので
今度是非色々とチェックしたい。
# by flowfree | 2005-10-14 17:08 | 映画:ドキュメンタリー
まずSMというと何を考えるだろうか。
筆者は色々と浮かぶ事がある。
知的なこと、学問的なこと、映画のこと、文学のこと、友人のこと、
恋愛関係のこと、アメリカのあの町の革製品屋さん、
東京のあの店、SM愛好家が多かったあの街のビアン達、
SM衣装がとっても似合わないあのビアン姉さん、
皮だからと言って古着のダサダサ衣装を着てパーティーに来るビアン姉さん、
全く魅力的に見えないSMビアン姉さん軍団
(いや、魅力的な人もいるのにそうじゃない人の姿がどうしても衝撃的で・・・)
プレゼントにあげたムチ、
お手頃だったけど使いこなせなかったムチ、
でかすぎて危なかった蝋燭、
目隠しするのに祭のハチマキを使いその姿に笑いすぎてSMどころじゃなかったこと、
などなど、アホなことから真面目なことまで色々とあります。
でも上手なことはなく、まだまだ色んな面で修行中。

今回ちょっと書いてみようと思ったのは
自分のブログをググッて見たら会員専用の
SMサイトで以前書いた記事が使われていたというのが発覚したから。
いや、最近色々とネット世界はあるのでちょっと試しに
何がでるか見てみたらなんと2件もSMサイトで記事のことが書いてあった。
しかし会員制らしく、そのページにたどりつけない。
でもその記事も結構率直に書いて満足しているものなので
(タイトル:Sと認めなくてもいいですか)
実はかなり嬉しかったのです。

真剣にSMと向かい合っていて良かった、と心から思った次第です。

日本で誇れる文化の大きな一つはやっぱりSM文化だとも感じていまして。
暴力や強制などは全くSMとは思っていないのでちょっと
理解を深めたい方はどうぞ歴史的なものを探して検索をして下さい。
暴力や強制から離れたSMはとっても深い。
その究極というものを学べる文学本、と言えば
沼正三の1957年の最高傑作家畜人ヤプーだろう。

寺山修司も大絶賛の作品だ。
石の森章太郎がまずコミック化し、そしてなんと江川達也が2003年に
コミック化したそうじゃないの。
知らなかった。たまには好きな本について調べてみるものだ。

でも内容は結構重い。かなり考えさせられる。
なぜならヤプーは自虐的。そして人種差別、性差別、奴隷などの
全ての人間がやってはいけないことばかり進んでやる。
もちろん"被害者”の側だがこれは進んでやっているので被害、と呼べないのかもしれない。
この本はマゾ、という観念よりも人間そのものの構造、人間社会全体の構造、というのを一人の
人間から学べる深くて重くてある意味サイエンス・フィクションの創造さを持った作品。

今年になくなってしまった倉橋由美子も沼正三に影響された作品書いているし
(それも良く書けていてかなり気に入っている)。
とっても影響力のある文化を創った沼正三。彼がずっと正体を暴かないところが
またSMをミステリアスに魅せている。
彼はご健在なんだろうか。是非お会いしたい。

また機会があったらもっとSMについて話したい。
# by flowfree | 2005-10-13 17:29 | sexuality